新型コロナウイルス感染症が世界に広がり、鬱々としたニュースが続いている。そんな中、自宅待機が続くイタリアで、オペラ歌手がバルコニーでオペラを歌いあげる姿が、SNSを通じて動画で拡散されて、つかのま人々の心を癒やした。音楽には、人の心を勇気づけ、楽しませる力があるのだ。
バルコニーでオペラを歌い上げる動画を見て思いだしたのが、ダニエル・シュミット監督の映画『トスカの接吻(IL BACIO DI TOSCA)』だ。1986年公開の古い映画だが、数年前にブルーレイ化された。
この映画は、ミラノに実在する“ヴェルディの家”を舞台にしたドキュメンタリーだ。
イタリアの作曲家ヴェルディは、リタイアした音楽家たちのための施設「Casa di Riposo per Musicisti(音楽家たちの憩いの家)」を、私財を投じて建築し、運営資金にはヴェルディの著作権による収益が充てられた。
オペラ演出家でもある監督ダニエル・シュミットは、そこに住む往年のオペラ歌手たちが、全盛期を思い出して語り、そして歌う姿をリアルに捉えている。
音楽家たちの憩いの家
1920年代のミラノ・スカラ座の花形オペラ歌手、サラ・スクデーリ(パッケージ写真の女性)をはじめ、作曲家のジョヴァンニ・プリゲドャ、テノール歌手のレオニーザ・ベロンなどが、自信満々の表情で、往年に得意としたオペラを披露する様子は、いわゆる“老人ホーム”などではない、“老年期の住まい”の新しい在り方を提示している。
居室のほかに、100人も収容できるホール、ピアノ練習室、トスカーニの部屋、プッチーニの部屋(ダイニングルーム)など、共用スペースも音楽に結びついたものとなっている。
歳を経て引退したからといって、誰もが突然老人に変身する訳ではない。若さも老いも、自分の人生の延長線上につながっているもの。自分が好きな音楽や趣味、記憶を共有できる人々と、尊厳を持ちながら一緒に暮らすことこそが、豊かな暮らしだとはいえないだろうか。
実際この家を建築する際に、施主であるヴェルディは、建築家が提示した「Ricovero di Musicisti(音楽家のための養老院)」という名前を拒否した。ここは養老院ではない、「Casa di Riposo per Musicisti(音楽家たちの憩いの家)」なのだという確固たる思いで、この館を命名した。
老いを考える
映画では、老いについて考えさせられるシーンがいくつも出てくる。
オペラ歌手サラ・スクデーリは、自分のレコードをかけて往時の自分自身が歌う『アイーダ』の歌声に聞き惚れながら、自然と同じ歌を口ずさみ始め、高らかに歌い上げる。映画が映し出す彼女の生活ぶりには、その絶頂期の歌声という栄光と過去に縛り付けられているのではなく、いつも現在進行形で暮らしの中に音楽が満ちあふれているのだということがよくわかる(パッケージのジャケットの彼女の笑顔がそれを現しているかのようだ)。
1930年代に大活躍したメゾソプラノのジュリエッタ・シミオナートは、絶頂期の彼女がプリマドンナとして来日した折に、作家・谷崎潤一郎はその歌声に感嘆したという歌声の持ち主だ。興奮した谷崎は、「イタリアオペラがあれば歌舞伎はもういらないね」と武智鉄二に言ったほどだった。
映画の中で、シミオナートは当時を振り返り、まだ自分が咲き誇る花のうちに引退して、人々の心に完璧な姿を記憶させて舞台を去ったことを誇らしげに語る。
“一瞬を永遠に”と考える芸術家たちの心が現れているシーンのひとつだ。
しかし、彼女たちの思い“一瞬を永遠に”という願いは、実はこのドキュメンタリー映画でこそ、後世に残るかたちとなったのではないだろうか。
この映画全篇を通して感じるのは、監督ダニエル・シュミットが彼女たち・彼たちを見る視点の愛情だ。“老い”をありのままに、そして美しく描いたのは、老年のオペラ歌手や音楽家たちへの尊敬と愛情からだろう。
現代の共生の家—“音楽家たちの憩いの家”
「Casa di Riposo per Musicisti」はいまもミラノ郊外にあり、リタイアした65歳以上のヨーロッパのアーティストや音楽家たちが暮らす。現在は、音楽家志望の若者も一部入居することが可能となっているようだ。往年の音楽家たちと音楽家をめざす若者による共生の住まい。これこそ、ヴェルディがめざしたものだったのに違いない。
「Casa di Riposo per Musicisti」にいまも暮らす音楽家たちが、今回の感染症から手篤く守られて健康であることを祈りたい。
タイトル:トスカの接吻
原題:IL BACIO DI TOSCA
監督:ダニエル・シュミット
脚本:ダニエル・シュミット
出演:サラ・スクデーリ、レオニーザ・ベロン、ジョヴァンニ・プリゲドゥ、サルヴァトーレ・ロカーポ、ジュゼッペ・マナキーニ
公開年:1986年
収録時間:1時間27分
発売会社:シネマクガフィン
販売会社:紀伊國屋書店
受賞履歴:国際ドキュメンタリー協会IDA賞/ゲント国際映画祭ジョルジュ・ドルリュー賞最優秀音楽ドキュメンタリー
製作国:スイス
メディア:Blu-ray Disc/DVD
販売:紀伊國屋書店https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-10-4523215136907