たまたま以前住んでいたマンションの前を通りかかった時のことである。明かりが灯った一階のその部屋から、突然火がついたような男の子の泣き声が聞こえた。何事?
しかし泣き声はすぐに止んだ。中から「ほらほら泣かない。タケシは強い子だもの」という、若い母親の声がした。10年前、この部屋で同じ事を言っていた母親がいたなと、私は苦笑いした。台所の窓からは、夕餉の準備の湯気が立ち上がっているのが見えた。
自宅で夕食を食べながら思った。大丈夫、あの家族は。だって台所に湯気が上がっていたもの。夕暮れにあたたかな湯気が上がっている家は大丈夫。私はいつもそう思っている。
かつての私たちの家が「今も幸せそう」であることに、私はちょっとうれしくなった。